85年目

今日は『関東大震災』85年目の震災記念日でした。


ちょっと驚いてしまったのですが。
さっき『震災記念日』と検索をかけてみた所、上位に来るのは軒並み『阪神淡路大震災』のこと。
東京で幼少期から過ごしているちゃまにとってみると震災といえば関東大震災であり、震災記念日と言えば9月1日だったので、ちょっとした目から鱗の発見でありました。


子供の頃からもうすぐ地震が起こる、起こると言われて。毎年この日になると避難訓練をしていましたね。関東地震の周期は60年とか70年とかで、85年という間隔はもういつ起こってもおかしくないほど期間が開いてしまってるそうです。。。だから、実際起きてみたらパニックになるんでしょうけど、いつ起きてもしょうがないという諦めみたいな覚悟みたいなものはいつもあります。


…そういえばちゃま、新潟県中越沖地震を経験してるんだった(汗。
http://d.hatena.ne.jp/tenten-chama/20070716
丁度車に乗ってエンジンをかけようとした時で、車が横にブルンブルン揺れて、崖下に向かってバックしだしたので慌ててブレーキかけて。と、あの日も結構大変でしたね。あれで震度5強だって言うんだから震度7なんて言ったら半端ないでしょうね。
気を付けてどうなるものでもありませんが、みなさん気を付けていきましょう。


ちゃまの仕事場から歩いて20分くらい、隅田川を渡った対岸に震災記念堂という建物があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%85%B0%E9%9C%8A%E5%A0%82
正確には東京都慰霊堂というんですね。この場所自体でも大勢なくなってるそうですが、関東大震災で大きな被害を出した隅田川(昼食時の地震だったので火事が起き、その火に追われて川に逃げ込んだ人が大勢なくなった)沿いなので建設されたのだと思ってました、そして東京大空襲の慰霊堂でもあるらしいです。。。でもずっと『震災記念堂』って呼んでました。
またの名をハトポッポ公園(ちゃまの親命名)。鳩がたくさんいて、鳩のえさも売ってて、やると鳩がボワッと集まってくるんですけど、幼稚園の頃から行ってる公園で。そんな縁もあって今日という日は結構ちゃま的には感慨深いです。


最近は夜店が盛んで。蔵前橋通りから大江戸線両国駅辺りまで夜店が列なってますよ。大盛況。
今日は何の日か忘れてなければ、そんなお祭りの形もアリだと思います。



さてさて、そんな地震の話をしたのは何故かというと、この関東大震災と一人の人物が大いに関係があるからなのです。それは誰かというと。


道重信教さん。


宇部出身のお坊さんで、あの徳川家菩提寺増上寺の大僧正に地方出身者にして異例の大抜擢!!
関東大震災の頃にちょうど大僧正の座にあって、飛行機を使って空中法要を行ったアイデア人物なんです。『今一休』なんて呼ばれて、大変徳のあったお坊さんだったみたいですね。
まぁ、ネットのヲタ界ではちょこちょこ有名な人だったようで、名前からもわかるようにさゆに列なる道重一族出身の方だろうといわれてるようです。(どのくらい近い存在かはわかりませんが)

たしかヤンタンでもその話題が出て、さゆも聞いたことがあるって言ってたかな?


以下長いので隠します。


http://www.yamaguchi-bijutukurabu.com/sinkyoufuji.htm

道重 信教(みちしげ しんきょう) 1856〜1934

宗教家・仏教学者。山口県宇部に生まれる。1879年に京都知恩院内の浄土宗大教校に入学。85年に宇部の松月庵の住職となる。96年に東京に出て浄土宗学本校教授となるかたわら曹洞宗大学、早稲田大学、慶応大学、東京女子高等師範学校などで仏教学を講じた。1900年(明治33)増上寺山内に仏学院を創設して仏教を講じ、徳富蘇峰寺内正毅らもその門を叩いた。23年に大本山増上寺法主に就任。関東大震災の際は飛行機による死者回向を行った。1929年宇部に帰郷し阿弥陀寺をひらき、その住持をかねた。仏教の民衆化をはかり、在家宗教を説き、席の暖まる暇の無いほど教化に専念し、「今一休」の異名で呼ばれていた


地元より中央で有名
明治天皇へ御前講義

 西梶返の宇部中央高校の西側、道路から一段高く、そして引っ込んだところにお地蔵様がまつってあり、横に道重上人誕生地と書かれた石碑が建っている。
 お堂の中を見ると道重上人の写真も飾ってある。
 「昭和9年、今日の宇部を築かれた偉大な指導者2人(道重上人と渡辺祐策翁)を失った。各地に偉人は出ているが、中央でも地方でも重きをなした2人に比較する人物は当分でないであろう」と 「新川から宇部へ」という本を書いた高野義祐氏は述べている。
 道重上人は黒岩観音やエムラの裏にある阿弥陀時を開いた人であり、宇部よりもかえって中央の方で有名なのに上京した人が驚いた話がよく伝えられている。
 上人は安政2年(1,855年)、梶返で生れた。代々農家であり、5男2女の5男として生れ、幼名を勝五郎といった。
 子どもの時は自宅の前を流れる塩田川で泳いだり、近くにあった米蔵の前の広っぱで相撲などをよく取ったそうである。頭は鋭くて5、6歳の時から兄たちが寺小屋で学ぶ本を開いて暗唱したりした。
 13歳の時、浄土宗の松月庵(後の松月院)に入り出家の道を歩むことになる。当時お寺も経済的にゆとりがなく、夜の明かりも使えず、冬など寒くて眠られない日が何日かあったという。このお寺で森重上人から多くのことを教えられ、京都の大教校(今の仏教大学)を卒業、38歳の時には浄土宗の本校の助教授にもなり、以後教授のかたわら布教活動をした。その活動が当時としては目新しい方法で名を挙げた。とくにラジオによる布教は日本で初めてだった。
 明治天皇への御前講義も行い、天皇より記念の御衣を賜っている。
 松月院19代と21代と2度、住職をされたが、徳川家の菩提所、大本山増上寺法主にもなった人である。
 70歳の時、関東大震災の3回忌の法要を飛行機から行って話題をまいた。
 黒石観音あたりの土地を買った時も、あのような辺鄙な山を買ってどうする気だと言われたが、
 「常盤の池や海が見えるこの山あたりは人々が住むようになる」と言われた。また、新川の説教所であった堂を阿弥陀寺として開いた時も門徒から猛反対されたが、何日もかけて説得した。
 今から考えると先見の明があったアイデアマンのお坊さんであったと言える。今一休と言われる所以もこういうところから生れたのであろう。
 (故黒木 甫氏著「ふるさと歴史散歩 宇部」より)