某所で

「さようなら」という言葉の意味について触れました。

「さようなら」→「そうならねばならぬのなら」

アン・リンドバーグは大西洋横断単独無着陸飛行をした飛行家チャールズ・リンドバーグの妻。 夫婦でアジアへの飛行ルートを探っているうちに千島列島に不時着。船でたどり着いた東京で熱烈な歓迎を受け、いざ横浜から出発するというときに、日本人が口々に叫ぶ「さようなら」という言葉の意味を知って以下のように書いているのだそうだ。


さようなら、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統の中では、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期している。それなのに、この口に人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ。


…、言われてみればそうだ。「左様なら」なんだ。
30数年生きてきて初めて気が付きました。今までこう「さようなら」っていう単独に成立している『お別れの為の言葉』なんだと、元の言葉、意味について疑いもせず使ってました。
でも、元は「左様なら…(仕方がない)」。昔なら『左様であるならば致し方もござらぬ』とでもあろうかと思う。別れる「悲しみを受け入れる言葉」、なんですね。

アン女子のおっしゃるように諦観、あきらめというのは確かにそうだと思うんですけど、そこにあるのは前向きなモノだと思うんですよ。『あきらめる』って、やっぱ後ろ向きな印象があるので「悲しみを受け入れる」と言ってみましたが。深い言葉ですよね。


パッと見つけたHPですが
http://www.satonao.com/diary/98/0522.html
出典は須賀敦子さんの『遠い朝の本たち』という本にあるようです。(自分は余所に上がってた、コピペを見ただけなので…。)

ほな、さいなら!とか面白いですねw。



さようならはそんなに大仰なモノではないよ〜
http://yeemar.seesaa.net/article/15451525.html
と言う意見も。


ん〜、確かにそうかも。自分の中で盛り上がりすぎたので、こういう意見は冷静になれるいい意見でした。
でも、ここで反論することではないですけど、「さようなら」が単なる話題を切り替える為の語だとしても、そこに「別れの言葉」という特別な用法が生まれたときに、左様ならば…のあとに続く思いには、諦めや無常観といったものが付随するのも確かだと思うんですけどね。「語源」についてはそれでいいですけど、「意味、その先にあるもの」についての考察はもうちょっと違った見方があると思いました。


みなさん、なんか面白い言葉と意味なんかあったら教えて下さい。ではでは。